2004年【葉月号】
vol.46

 大博通りの奧の堂バス停から博多駅の方に少し歩くと、右手にお寺の門が見えます。「冷泉山龍宮寺」何やらロマンを感じさせる名前です。
 鎌倉時代はじめの貞王元年(一二二二)、漁師の網に八一間(一四六メートル)とも八一尺(二四・五メートル)とも伝えられる巨大な人魚がかかりました。その報告を受け、都から勅使として冷泉中納言(れいぜいちゅうなごん)が下り、しばらく浮御堂(うきみどう)に滞在しました。占いの博士安部大富(あべのおおとみ)に占わせると「国家長久の瑞兆(ずいちょう)」というので、人々は大喜び、この人魚を浮御堂の地に手厚く葬り、「人魚は竜宮の使い」ということで、寺の名を竜宮寺、また勅使冷泉中納言にちなんで冷泉山と名付け、このあたりの海を冷泉の津というようになりました。
 人魚があがった所は、明治通りの呉服町「柳ヶ池神社」という小さな石碑が立っている辺りだと伝えられています。当時博多湾は深く湾入していて、浮御堂は潮が満ちると海に浮いた御堂となりました。室町時代の中頃、龍宮寺に泊まった連歌師宗祇(そうぎ)は「前は入り海が遙かに続き、志賀島を見渡して、沖には唐人が乗っているのかと思える大きな船が停泊している。右には箱崎の松原が延々と連なり、多くの仏閣や人家が軒を並べている」と紀行文に記しています。
 さて、龍宮寺にはこの“人魚の骨”が保存されています。明治の頃までは夏祭りの時、漆塗りのタライにこの骨を入れて水をはり、夏の疫病除けに霊験あらたかだといって、参詣の人たちがありがたく飲んでいました。また境内には人魚塚があり、これも削って飲むと長寿の御利益があるといわれ、先代の塚は原型を留めないほどになっていたといいます。
 龍宮寺にある江戸時代に描かれた人魚の絵は、竜宮の宝珠を手にした美女。博多の人々に御利益やロマンを与え続けるミューズです。


龍宮寺(りゅうぐうじ)
【盆踊り】
 こどもの頃、毎年楽しみにしていた夏の行事に盆踊りがあります。輪になって踊る地元のおばさんや友だちが、その夜だけは妙に色っぽく見えて、えも知らぬ どきどき感につつまれたことを思い出します。
 今年の夏は、数年ぶりにその盆踊りに出かけることにしました。まつりの当事者だったときには思いもしなかったのですが、一度その習慣から離れて生活をすると、より一層、あの夜の賑わいだ熱気が新鮮に感じられます。
 せっかく踊りにいくのに、洋服と靴ではやはりものたりません。浴衣や下駄 を揃えたくて、一日かけて気に入るものを探し回りました。以前、踊りの先生に「浴衣は着てみるだけでも十分に魅力があるけれど、踊りの動きの中では、なお一層映えるものですよ」といわれたこと思い出しながら…。
 夜の空間に揺れる光と影は、まさしく陰影礼賛。まつりの夜をぼんやり想像しながら、近づく真夏の夜へと心が躍るのを感じるのでした。

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