2005年【水無月号】
vol.56

 今年は戦後六十年の節目の年にあたります。
 昭和二十年(一九四五)六月十九日、マリアナ基地を飛び立った米国軍第二十一爆撃兵団のB29二三七機は、午後十一時十一分、福岡市上空に達し焼夷弾攻撃を開始しました。漆黒の空から火の雨が容赦なく振り続け、逃げまどう人々の悲鳴、燃え上がる家屋、博多の街はさながら地獄の様相でした。
 ようやく攻撃が終了したのは、日が替わった二十日の午前〇時五十三分。夜が明けてみると、一面の瓦礫の焼け野が原にコンクリート造りの奈良屋小学校の本館と、玉屋デパートだけが建っていました。悲惨を極めたのは現在博多リバレインのある一角にあった十五銀行です。大きな建物ならば大丈夫だろうと逃げ込んだ六十九名の人々が全滅したのです。
 福岡の羅災者数は五六九八四人。死者は八五七人。このうち三〇八人が奈良屋校区の人でした。萬盛堂本店がある旧上洲崎町でも三十七もの住人が亡くなられました。先代石村善右は、生き残った町内の人々に図り大空襲で黒く焼けた自宅の庭石を台座として、須崎問屋街(上洲崎町)の入口東側に「洲崎地蔵尊」を建てました。台座にはこの町の戦死者四名と戦災死者三十七名の名が刻され、花を手向け、町の人々の誰彼が毎日水をかけ供養していましたが、時の流れと共に町の人々も次第に替わり、戦後五十年経った平成六年、弔い挙げの気持ちもあって、東区馬出の宗玖寺にお移りいただきました。
 十五銀行での犠牲者を祀った「じゅうご地蔵」も栄昌寺の移転と共に現在では西区今宿の同寺境内に移されましたが、古門戸町(旧中対馬小路)の沖濱稲荷境内、須崎町(旧下対馬小路)の黒田神社境内、旧下洲崎恵比寿神社境内など、町毎に祀られた戦災地蔵が、ビルの谷間や車の行き交う道端で、今なお六十年前の大惨事をひっそりと物語り、平和のありがたさをかみしめているのです。



洲崎地蔵尊
【ユリを食べる】
 先日、友人に連れられて中華料理店に行ってきました。そこで初めて口にしたのがユリ花芽の炒め物。つやつやとした健康的な明るい緑色に、ほのかな甘みがとても衝撃的でした。
 料理人の腕にかかったユリの花芽は、ほっぺをとろけさすうま味と、優しくもシャキッとした触感がとくに忘れられません。若い蕾を口元に持って行く手の動きは、どうにも止めることができませんでした。
 中華だけでなく、日本ではユルを食材として用いるのは新しいことではないようです。根を使った正月料理は欠かせませんし、でんぷん性をいかした料理はユリネ団子として紹介されることもあります。また、東洋医学では、血行をよくし、痰を切り、産後に力をつけるなど薬としてもよく使用されるそうです。
 姿よし、香りよし、味よしのユリを思うと、その奥深さにあらためて心を動かされたのでした。
 ちなみに、食材としてのユリ根は十月から十二月頃が、花芽はちょうど六月から七月頃が味の旬とのことです。

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