2006年【弥 生 号】
vol.65


延元元年(1336)、南朝年号で云えば建武3年3月2日、南北朝時代のターニングポイントとなった多々良浜の戦いがあった。 京都での戦いで楠木正成・新田義貞に大敗した足利尊氏は、西走して大宰府の少弐頼尚に迎えられ、3月1日宗像大宮司の館に入った。その前日、宝満山麓の有智山城の戦いで、少弐頼尚の父貞経を打ち破った菊池武敏・阿蘇大宮司惟直・秋月入道寂心等は、村々を放火しながら陣を箱崎まで進めてきた。
  足利尊氏・直義兄弟は、宗像氏が調えてくれた馬・鎧を召し、2日の朝8時頃宗像を出発した。午後2時頃香椎に到着した尊氏軍を香椎宮の神人達が杉の枝を捧げて迎えた。なかに浄衣を着た老翁が尊氏の鎧の袖に杉の葉を挿し、香椎宮と杉の由来について物語り「敵は笹の葉を笠印にしている。この杉を御方の印に」と言った。この老翁を知る者はなく「さては神のお使いであったか」と一同頼もしく思い、大いに士気があがった。
  やがて菊池軍と足利軍は延々と続く多々良潟で行き会った。菊池勢は数万の大軍を以て北向きに松原を背に陣を張り、対する足利勢わずか300余騎は南向きに、少弐の手勢500は馬より下りて東手を支えた。多勢に無勢、とても勝ち目はないと思われたが、足利軍は、直義・頼尚を先頭に勇猛果敢に戦った。折節北風烈しく砂を吹きたて、菊池軍は視界を遮られ思うように戦えない。搦手にいた松浦党は、磯うつ波の音までも鬨の声と思い、とうとう一戦もせずに降参してしまった。足利直義の軍は勝ちに乗じて大勢の敵を追い博多沖浜まで攻めかけ、今の博多の中心部も戦場となった。
奇跡の勝利を収めた足利尊氏は、翌3日大宰府の四天王寺山の麓、原山にはいり、わずか1ヶ月で九州を平定した。4月3日、八幡大菩薩の旗をなびかせて東上した尊氏は、新田義貞を追い、楠木正成を湊川の戦いで破り、ついに室町幕府を樹立した。
50町もあったという多々良干潟も、今ではすっかり様変わり。車がひっきりなしに行き交う東区の流通センターの一角に、「多々良干潟の碑」があり、わずかに遠いいにしえを物語っている。


                                  多々良干潟の碑

【雅なうたげ】

 木漏れ日のやわらかな梅苑に流れる一筋の遣水。ゆるやかに曲がった水辺に、色とりどりの平安装束に身を包んだ歌人が着座すると、いよいよ曲水の宴がはじまります。 清流にのぞんで詩歌を作り、雅な雰囲気のなかで盃を巡らす曲水の宴は、中国古代、周公の時代に始まったといわれます。日本に伝わったのは7世紀末。それから平安時代中期までは宮中の年中行事として正式に行われていました。 京都の城南宮、平泉の毛越寺などに伝わるこの伝統行事は、現在、福岡の大宰府天満宮でも観覧することができます。大宰府では、その起源を「天満宮安楽寺草創日記」に求め、毎年境内の梅の見頃(3月の第一日曜日)の時期に繰り広げられています。その様はまさに平安王朝さながらの美。多くの人が目の前の光景に魅了されているのが印象的です。 辺りに漂う梅の香り、鶯の囁き、目に美しい芸術にふれ五感を喜ばせるのも春の楽しみのひとつです。

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