2006年【葉月号】
vol.70

 福岡城の本丸から扇坂(おうぎさか)(平和台陸上競技場の裏あたり)に下る途中にあった扇坂御門は「お綱門」と呼ばれ、手を触れると熱病に冒されると、長く恐れられていた。この縄文にまつわる話は、福岡で最も凄惨な怪談として語り伝えられている。
 二代目藩主黒田忠之は、江戸の参勤からの帰途、大阪で芸妓采女(うめね)を身請けし福岡に連れ帰り寵愛したが、家老の栗山大膳に諌められ、お側役の浅野四郎左衛門に下げ渡した。采女に夢中になった四郎左衛門は、妻のお綱と子のお妻・小太郎に、善作という家来をつけて、箱崎の下屋敷に追いやった。
 その後夫からは何の音沙汰も無く、お綱は淋しい日々の暮らしに、怒りの炎をかき立てていった。寛永七年(一六三〇)三月、子供の節句の祝品をもらいに本宅に遣った善作が、さんざん辱めを受けたことを知るや、お綱の怒りは爆発した。憤怒の形相もの凄く、そばにいた子犬の喉笛にかみつき、血に狂って二人の子供を刺し殺し、長刀を小脇に髪振り乱して大名町の本宅へと駆けた。四郎左衛門はあいにく勤番中で、警備の明石彦五郎に切られ深傷を負った。しかし怒り狂ったお綱は「夫に一太刀を」と、必死の思いで場内に向かい扇坂門まで来たが、その柱に手を掛けたまま息絶えた。
 お綱の霊は怨霊となり四郎左衛門・采女・彦五郎に祟った。四郎左衛門はその後一年ばかりで狂死し、跡目を継いだ彦五郎は、お綱の霊のせいで藩主の名刀を盗み、釜煎りの刑に処せられたという。
 その後、お綱大明神が城前の長宮院(現福岡家庭裁判所構内)に祀られたが戦災で焼失してしまった。下屋敷は馬出の「枯野塚」辺りにあり、お綱母子を弔う小さな墓がある。東側にあった「お綱ヶ池」という小さな池は、お綱の恨みがこもっているので、魚や芹(せり)を取って食べると祟りがある伝えられ、お綱が大名町の本宅へと駆け抜けた道は草も生えぬといわれた。
 世は移り変わり、お綱の恨みの籠もった門や家や池も今は跡形もない。凄惨な事件ではあったが、四百年近くも経てば、お綱も恨みも薄らぐのであろうか。


扇坂御門跡(おうぎさかごもんあと)
【さるすべり】
 夏にいよいよ勢いを増すのが「さるすべり」。夾竹桃(きょうちくとう)と共に日本の夏を代表する植物です。
 「さるすべり」と耳にすると、猿がつるんと滑っている様子を思い浮かべ、「猿滑」という表記を想像する方も少なくないでしょう。実際子の幹は、木登り名人の猿でさえうっかりすると滑り落ちそうなほどの肌をしており、豊かな想像力をもってすれば、この呼び方も合点できます。
 では、なぜ、「さるすべり」は、文字表記にすると「百日紅」なのでしょう。実はこれは、原産地中国の表意文字で、次から次へと花を咲かせ、百日にもわたってどこかにピンクや白の花を咲かせていることから当てられたといいます。同じ植物でも、それぞれ目のつけどころが違うと、名づけ方も変わってくるのですね。
 ただ、日本の先人は、この植物を「さるすべり」と読んでしまった。その洒落っ気たっぷりの感性がとてもユニークで、毎年この植物を見ると、思わず幹を撫でずにはいられなくなるのです。

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