2001年【神無月号】
vol.12

 世界史上未曾有の大帝国をうちたてた元(蒙古)が高麗を従え、軍船九百艘で初めて博多湾頭に姿を見せたのは、文永十一年(一二七四)十月十九日のこと。翌二十日、今津、百道から上陸した元軍は、麁原山(そはらさん)に陣取り、鳥飼・赤坂・箱崎等で日本軍と激戦が繰り広げられた。「やあやあ、遠からん者は音にも聞け。近くば寄って眼にも見よ。われこそは肥後国の御家人竹崎五郎兵衛尉季長(ひょうえのじょうすえなが)なり。」
 というふうに悠長に、一騎ずつ名乗りを上げ突進してくる日本の武士に対し、蒙古軍は太鼓やドラを合図に、あるいは攻め、あるいは退き、集団統制のとれた戦い。しかも甲胄は軽快で、鏃(やじり)に毒を塗った矢を次から次ぎへと雨のように射かけてくる。ことに、鉄丸に火薬を包んで激しく飛ばす「てっぽう」という物には肝をつぶされるばかりだった。想像もできない戦法に太刀打ちできず、博多は完全に敵の手に落ち、多くの民家が、そして筥崎宮までが炎上した。日本軍は太宰府の水城にまで退却し体勢を立て直すこととした。
 しかし、一夜明けてみると博多湾には一艘の軍船も見えないのだ。なぜこういう事態になったのかは現在でも諸説合って謎のまま。古来、二度の蒙古来襲は二度とも「神風」に救われてきたと言われてきた。太陽暦の八月二十二日にあたる弘安四年(一二八一)の弘安の役で台風が吹いたのは確かであろうが、十一月二十六日に文永の役の場合は…。
 ともあれ、蒙古軍撤退の後、幕府は九州九ヶ国に命じ、博多湾岸に石築地(いしついじ:元寇防塁)を分担して築かせ、警備にあたらせた。その甲斐あって軍船四千五百艘、十四万人の大軍で押し寄せた弘安の役では元軍は上陸できず、おまけに神風によって海の藻屑となった。
 文永の役の最大の激戦地麁原山は西新の祖原。標高三十三メートルの丘陵ながら、三六〇度の展望がきく所で、山頂北側に「元寇古戦場跡」の石碑が建っている。


「蒙古襲来絵詩」(筥崎宮所蔵)
【十三夜へのお誘い】
 仲秋の十五夜は、一年のうちで最も月の冴え渡るとき。月下にススキなどの秋草を生け、だんごを供える楽しみがやってきます。日本の観月には「十五夜」と対に、「十三夜」という独特の習慣があるのをご存じですか。仲秋の名月だけを見て、名残の月を見ないことを「片月見」といいますが、昔の人はこれを無粋とし、忌み嫌っていたそうです。
 名残りの月は、陰暦の九月十三日。満月にはちょっと満ち足りないお月さまのこと。ちょっと欠けたものに、美をみいだすところなど、いかにも日本流な感覚です。そういえば、短歌の世界でも、完全な満月を誉めたたえることは、好まれないですものね。
 実際に、仲秋の名月は、秋雨や台風の多い時期。二つのお月さんがセットになったいきさつには、いろんな理由があったのかも知れません。 

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