2002年【皐月号】
vol.19

 萬盛堂本店の向かいホテルオークラの前あたりは、江戸時代「札の辻」といって、藩からのおふれなどを書いた高札が建てられる場所だった。その横の橋を渡った所が中島町。ここに昔大きな醤油屋があった。下の書物の写真に描かれている図は江戸町人文化の栄えた文化・文政期頃のこの界隈の図。
  図の中ほどに「我庵は博多福岡の中のしま 花は春吉 月はすみよし」という歌が見える。博多と福岡の間にある中の島を「我が庵」といった人。奥村玉蘭。この醤油醸造元の三代目の主であり、この図を描いた人である。
  玉蘭は宝暦十一年(一七六一)の生まれ。幼名梅松といい、利発な子だった。早く母を亡くしたこともあって、祖父安兵衛はことのほか梅松を可愛がった。この祖父が商用で旅をした時の土産話などは、ことに梅松の胸をときめかした。
  やがて梅松は『萬盛堂歳時記・弥生号』でご紹介した、亀井南冥(かめいなんめい)、その子昭陽(しょうよう)の門に入った。亀井父子が不遇に陥ったときは自宅に招き、この庵は当時の博多の文化人が集うサロンとなった。しかし、藩から睨まれている人物をかくまうことは一族にとっては困ること。ついに廃嫡の憂き目にあうが、玉蘭はかえってチャンスとばかり、太宰府に移り草庵を結び、仙がい和尚からプレゼントされた「玉蘭堂」という額を掲げ、一層学問、画業に励んだ。そんな暮らしの中から生まれたのが『筑前名所図会』である。
 幼い頃、祖父の話に胸ときめかせたように、「全国の人々に私の住む博多を、福岡を、筑前を紹介し、楽しんでもらいたい」。玉 蘭は独り、腰に矢立を、懐に分厚い帳面を入れ、筑前国中をくまなく歩き回り、十年余の歳月をかけて『筑前名所図会』全十巻を完成させた。この書物には、当時の筑前の名所旧跡ばかりでなく、祭りや伝統工芸、伝説などがいきいきとした絵を添えて綴られ、私達を江戸時代の博多へタイムスリップさせてくれる。
 しかし、この本が日の目をみたのは、玉蘭が文政十一年(一八二八)五月六日、六十八歳でこの世を去ってから一四五年も後の昭和四十八年のことだった。  

『筑前名所図会』巻二 中嶋東西の橋・札の辻の図(福岡市博物館所蔵)
【夏も近づく…】
 といえば、八十八夜。茶摘み歌にもうたわれる季節の到来です。「八十八夜」とは立春から数えて八十八日目の夜のこと、暦でいえば五月二日頃をさします。京都の宇治では、この頃、ちょうど茶摘みが始まります。四月下旬の萌芽から、約三十日。葉の中に香の成分やうまみが蓄えられたころを見計らって摘むというわけです。
  日本はしかし、縦に細長く、地方によって気候が違うのが特徴。茶摘みの順番も、桜前線のように萌芽の早い暖かい地方から始まります。鹿児島や宮崎、南の離島などでは「走り新茶」として早い時期に売り出されるものもあります。同じ新茶といっても、味わいはそれぞれで個性豊かなのです。いずれにしても、その年の気候によって萌芽の時期や“摘み時”は異なるため、農家の方の苦労は、計り知れません。
  新茶は、ワインの世界に例えるなら、「ボジョレーヌーボー」。初ものを楽しむ期間限定商品を、今年はみずみずしいうちに楽しみたいものです。

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