2001年【弥生号】
vol.5

 天平宝字三年(七五九)三月二十四日、国防上の不安を太宰府から中央政府に申言したことが、『続日本紀』という歴史書に記されている。この中で「博多大津および壱岐・対馬等要害の処‥」とあるのが文献上に現れた「博多」の初見である。また同書の天平宝字八年(七六四)条には「太宰博多津」に新羅の使い金才伯等九十一人が到着したことが記されている。
  古く「那津(なのつ)」といわれた美しい入江は、奈良時代中頃には「博多津」と呼ばれるようになっていた。そして、博多津は太宰府と密接な関係がある港であり、当初から国防上、外交上、重要な港だったことが知られるのである。
  この頃の「博多」は、博多湾沿岸一帯、つまり現今の福岡市とほぼ同じ地をいうようだが、中世以降の商人の町として栄える博多は、北を海に開き、西は那珂川から東は石堂川あたり、南は博多駅附近までの地域をさしている。
「はかた」の語源については
1. 海岸線から南に広がる地形が、飛ぶ鳥が羽を伸ばした形に似ているので「羽形」。
2. 船が泊(は)てる潟(かた)「泊潟」。
3.「筥(はこ)夕」で「ハコ」は河海に囲まれた島のような地形。
4. 土地が広博で人や物産が多く集まる地とういう意味。
など諸説があるようだ。
  ちなみにタイトルにある「facata」は、十六世紀ヨーロッパの地図などに記された「博多」である。

「慶長御城廻御普請御伺絵図。1610年頃の博多(右側)と福岡(左側)を描いたもの。(福岡市博物館所蔵)
【お雛さま】
 あでやかな桃色が、あちこちにほころぶ。菜の花を、のどかに揺らす風吹く頃は、弥生の初め、「上巳の節供」がやってくる。その昔、中国から伝わったこの行事に、人々は清流に臨み、身の穢れや禍を流し、あるいは曲水に宴をもよおすなどして、季節の節目を祝ったと聞く。
  日本では、穢れを運ぶ役割に「人形」を大いに活用した。今でも、あちこちに見られる、流し雛のもととなるものだ。後に、お雛さまは夫婦になり、立ち雛やら座り雛やらと、様々な変化をともなって、色々な姿を今に伝えている。
  そういえば、ちょうどこの季節。我が家の玄関先に、小ぶりのお雛土鈴がすまし顔。
今年は、ほんのちょっとしたロマンを感じながら、毎日、楽しい気分で出かけて行けそうだな。

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