2001年【水無月号】
vol.8

 太閤豊臣秀吉が、南蛮船フスタ号に乗り戦火に焼かれた博多に入ったのは天正十五年(一五八七)六月十日のことだった。秀吉は博多町人の保護を眼目とする九箇条の「定」を博多津に与えるとともに、翌日より早速博多町割の作業に取りかからせた。
 焼け野が原の博多は、昔の通路の跡さえわからない。そこで古い辻井戸を探し、これを基準に屋敷の区画を確かめていったという。町割りには、六尺五寸四分の間杖(ものさし)が使われた。本物は江戸時代神屋家が保管し、その後豊国神社の宝物になったが、昭和二十年六月の空襲で焼けてしまった。しかし今、櫛田神社の宝物殿にそのレプリカがあり、近世都市博多の誕生を偲ぶことができる。
 新しい町割りは一の小路(市小路)を測量起点とし、およそ十町四方、四水四応、四神相応の町づくりで、また七条の袈裟になぞらえる七七、四十九願をあらわし、博多を一山の七堂伽藍(しちどうがらん)にたとえたという。
 七小路(対馬小路など)、七番(麹屋番など)、七厨子(奥堂厨子など)、七堂(石堂など)、七口(浜口など)、七観音(東長寺などの観音)があり、七流は、呉服町流、東町流、西町流、土居流、須崎流、石堂流、魚町流であった。このうち松囃子で大黒をうけ持つ須崎流は大黒流、恵比須をうけ持つ石堂流は恵比須流、福禄寿をうけ持つ魚町流は福神流と呼ばれるようになった。
 由緒ある町名の多くは戦後の住居表示の実施で姿を消したが、「流」は歴史と共に消長を繰り返しながらも現在も生き続け、山笠や松囃子などの博多の祭りや、人情を支える根幹となっている。そして豊臣秀吉が博多に入った六月十日、奈良屋町の豊国神社では太閤秀吉に感謝を捧げる「博多復興記念祭」が、今も博多の人々によって執行されているのである。


須崎の萬盛堂本店にある「追山笠廻り止絵図」博多人形師亀田均氏作
【暦の潤い】
 チベット暦、マヤ暦、ヘブライ暦、イスラム暦…。世界には、独自の暦を持つ国や民族が数多く、日本にも、太陰太陽暦という旧暦があります。中国から推古天皇の時代に伝わった、年中行事のナビゲーターで、月のサイクルと四季の巡りをベースに作られる暦です。この暦をもとにした日本人は、自然のリズムとシンクロする、独特の生活臭を放ってきました。
 明治六年。文明開化の大イヴェントに、グレゴリオ暦が敷かれます。この新暦は、太陰太陽暦で育まれてきた習慣の独自性に、蓋をする形になってしまいました。
 ヌーベルヴァーグの直輸入から一世紀以上経った今、季節感の薄らいだ現代人のあいだでは、民族カレンダーや旧暦に対する需要が高まっています。まるで、人工皮膚の内側から、失った本来の感覚を取り戻そうとするかのようにもみえる動きです。「自然のリズムとシンクロする生活を!」と望む声は、ここへきて、ますます盛んになっているようです。
 忘れかけられた旧暦を見直すこと。それは、元来の「潤う国」、ニッポンの気配を探ることにもなりそうです。月をなごみ、季節のうつろいに感謝する。こんな日を過ごすのも、素敵なものではないでしょうか。

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