2004年【皐月号】
vol.43

 卯月号でご紹介した鴻臚館(こうろかん)は舞鶴公園(まいづるこうえん)の一角にあります。 舞鶴公園は、かつてここにあった福岡城のまたの名「舞鶴城」に由来します。この高台と荒戸山(西公園)を主軸として、左右に展開する城は、青い博多湾に、白い鶴が羽を広げて舞い降りたかのようでした。若葉の季節、舞鶴公園には、躑躅(つつじ)、牡丹(ぼたん)、芍薬(しゃくやく)、花菖蒲(はなしょうぶ)、紫陽花(あじさい)など、美しい花々がつぎつぎに開花の時を迎えます。城主黒田家の家紋にもなっている藤の花はひときわ美しく、この城跡に繰り広げられた栄華を物語るようです。
 関ヶ原の戦いに大功のあった黒田長政が、徳川家康から筑前五十二万国を拝領したのは慶長五年(一六〇〇)のこと。長政は父如水とはかり、福崎の地(現在地)を選んで、よく六年より七年がかりで、総面 積二十四万坪、四七の櫓、十余りの城門をもつ平丘型の堂々たる城を完成させ、先祖の地、備前国邑久郡福岡(びぜんのくにおくぐんふくおか)〔岡山県長船(おさふね)町福岡〕にちなんで、「福岡城」とし、城下を「福岡」と称しました。
 大手門バス停から下の橋を渡ると、右手に下の橋大手門(渦見門)が見えます。その横の潮見櫓(しおみやぐら)はもと三の丸北西角にあり、朝夕の潮流の観察や海上監視をした建物でした。陸上競技場の正門前辺りには、「黒田節」で有名な母里太兵衛(もりたへえ)宅の長屋門が移築され、その奧少し登ったところに、如水隠棲の地があります。母里太兵衛や栗山大膳等重臣の屋敷跡は上の橋から入った城の東北、鴻臚館跡調査区(旧平和台球場)の側にあります。鴻臚館跡展示館横から二の丸門→東二の丸→扇坂→二の丸→本丸へと、苔むした石垣を眺めながら進むと、脇差しを差したお侍に出会えそうな心地もしてきます。南丸の多聞櫓(たもんやぐら)は、十六の部屋に仕切られた長い平櫓と両端の二階建ての角櫓からなり、石垣にそって多くの石落としを備えた防衛的建物で、国の重要文化財に指定されています。
 本丸は見事な石垣に支えられ、天守台を中心に中天守・小天守がありますが、天守閣は、はじめから造られなかったといわれてきました。しかし最近、天守閣があったとする説が急浮上し、「幻の天守閣再建」へのロマンもひろがっているようです。

潮見櫓(しおみやぐら・福岡城跡内)
【手紙を書く】
 あわただしく過ぎる変化の春から、新緑のまぶしい季節となりました。ようやく心も落ち着いて、遠く離れてしまった大切な人に手紙を書くことにしました。
 以前、年下の友人から、勢いよく流れる筆で書かれた手紙を受け取ることがありました。決して達筆とは言えないのですが、相手のコンディションや思いやりがよく伝わって来て、心が暖かになった記憶があります。それで、今回、真似をして手紙を書くことにしたのです。
 最近は、電話や電子メールで何でも済ませられるようになり、手紙を書く機会が少なくなってしまいましたが、いざという時、また、言葉にできない気持ちを伝えたい時には、手紙はとても効果 的なようです。そこにある文字は、機械的、事務的なもの以上のことを伝えてくれるからです。
 また、チョイスする便箋や葉書は、特別な気持ちをいっそう効果 的に演出してくれます。「手紙一つでお互いの気持ちが深まる」というのは、言い過ぎではないでしょう。

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