2006年【霜月号】
vol.73

 萬盛堂本社の近く、現在は古門戸町(こもんどちょう)となっている所の一部は以前「妙楽寺町(みょうらくじちょう)」といっていた。これは、鎌倉時代末の正和五年(一三一六)に月堂宗規(げつどうそうき)和尚がこの地に創建した妙楽寺によるもの。当時この辺りは浜辺で、側に元寇防塁(げんこうぼうるい)が築かれていたことから、「石城山(せきじょうざん)妙楽寺円満禅寺」と号した。
 外門を潮音閣(ちょうおんかく)といい、山門を呑碧楼(どんぺきろう)といった。

  石城楼上欄干(らんかん)による 万里秋空一碧(いっぺき)を呑む 龍は黒雲を巻て洞府(どうふ)に帰り
    日は黄道(こうどう)(太陽の運行する道)を行きて金盆に落つ

 秋の夕べ、龍は黒雲を巻いて洞穴に帰り、夕日は金色に輝く博多湾に沈んでいく。そんな息を呑むような光景を、豪壮な呑碧楼の上から眺めた中国僧は、詩に詠じている。
 浜辺にあった壮麗な妙楽寺の建物は天文七年(一五三八)の博多の大火で焼失し、現在の御供所町の地に再建成ったのは、慶長五年(一六〇〇)に黒田長政が筑前藩主になってから後のことだった。この寺には、神屋宗湛(かみやそうたん)、末次興善(すえつぐこうぜん)、伊藤小左衛門といった博多の豪商たちの墓があり、また幕末、福岡藩の動乱の犠牲になった鷹取養巴(たかとりようは)らの墓もある。
 本堂の手前にある「ういろう伝来之地」の金文字の石碑は、ひときわ目を引く。「ういろう」といっても、菓子の外郎(ういろう)ではなく、これは薬で、「透頂香(とうちんこう)」という消化器疾患、口中清涼用に効能のある丸薬のことである。実は妙楽寺の開基檀越は、この薬を伝えた元からの帰化人医師陳延裕(えんゆう)(宗敬・そうけい)と伝えられている。陳宗敬は元朝につかえ礼部員外郎であったことから、陳外郎(ちんういろう)とよばれ、薬も「ういろう」と言われたのである。
 歌舞伎の「外郎売」は、二代目市川団十郎が江戸森田座で外郎売に扮し、口中が爽やかになり、舌がよくまわるという薬の効用を証明するため、長台詞(ながせりふ)をまくしたて大喝采を博して以来、同家のお家芸になっている。博多座では、平成十三年に市川新之助(今の海老蔵)が演じ、その際「ういろう伝来」の寺を訪ねたことが話題になった。

              「ういろう伝来之地」石碑(妙楽寺)

【冬支度 炬燵(こたつ)】

 十一月ともなれば、そろそろ本格的な冬支度が必要となります。我が家でこの時期登場する暖房器具といえば、炬燵。隙間風にも負けない頭寒足熱の効果は、今年も活躍が期待されます。
 炬燵は江戸時代に庶民に広がり、火鉢とともに日本の冬に欠かせない暖房器具として発達してきました。とくに、火鉢が寺院や武家で客向けに使われたのに対し、炬燵は家庭でその威力を発揮していました。
 江戸時代、茶道の炉開きに倣(なら)って、新暦十一月初旬の亥の日を炬燵開きとする習慣があったのをご存じでしょうか。この日は特別に玄猪(いのこ)と呼ばれ、「火の用心」を始める目安とされていました。亥の日がその目安となったのは、当時の生活習慣に浸透していた陰陽五行説が影響していたためです。亥にあたる日は、陰陽五行説で水の性質を表し、最も火難を逃れられると信じられていたのです。
 なんとなく使用する生活用具も、昔の生活や習わしを思いながら使うと、なかなか風情のあるものだと感心します。

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