2007年【睦 月 号】
vol.75

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 博多総鎮守櫛田神社の本殿向かって右に、石や瓦を練り込んだ一風変わった塀があります。これは以前中呉服町にあった博多の豪商島井宗室の屋敷跡から、昭和四十五年に移築復元された練塀といわれる土塀です。

 戦国時代、博多は大友氏、毛利氏、島津氏らのはげしい争奪戦のため焼け野が原となりました。天正十五年(一五八七)六月、島津を討ち博多に入った豊臣秀吉は、早速、石田三成・小西行長等に命じ、大がかりな戦災復興にとりかかりました。東は石堂川、西は那珂川の間、十町四方の地に幹線道路を東西に三本、南北に四本走らせ七条の袈裟に見たて、さらに街を七つの“流れ”に分け、七番、七堂、七辻、七小路などをおき、商人の自治都市として復興しました。こうして復興した博多の街は活気に満ち、神社仏閣や豪商の屋敷の高い土塀が続き「博多八丁塀」と呼ばれました。これらの塀には、焼け跡に残る焼け石、焼け瓦が、そのまま材料として使われました。博多復興の悲願や、復興を急ぐ気持ちの高ぶりなど、当時の博多の人々の心意気を感じさせる文化遺産です。

 一方、福岡の城下町には、谷、大西、地行、鳥飼、春吉など下級武士の宅地のまわりに、ちん竹の生け垣がありました。そのため、そこに住む人たちは「ちんちく殿」とあだ名されていたといいます。チンチクは、「珍竹」「沈竹」などと書かれましたが、「蓬莱竹」のことで、中国南部地方が原産、中国では「鳳尾竹」とよばれています。その名の通り、鳳凰の尾のように、節から多数のしなやかな枝を出し、葉は互生叢状を呈しています。またこの竹は鉄砲の火縄の材料となることから、南は沖縄から北は駿河あたりまで諸国で、この竹を植えることが奨励されました。

 練塀やちん竹の生け垣の続くまち並みは、博多、福岡城下の特色ある景観を形成していましたが、今では、博多練塀はわずかに聖福寺や妙楽寺で見るのみ。ちん竹塀はほとんど見ることができなくなりました。

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【三社詣 】

 お正月の過ごし方も様々な昨今ですが、みなさんはどのような場所でどのような新年を迎えられたでしょうか。
 お正月に家族が揃う我が家では、今年も恒例の三社詣が行われました。三社詣は、方角の良い三ヵ所の神社仏閣を巡って新年の幸運を願う慣わしで、だいたい松の内までに行われます。我が家では、「今日はあそことここで、明後日にあっちね」といった具合に、大晦日から予定を立てて出かけるのが一つの楽しみにもなっています。
 初詣は神社に行くものだと思い込んでいた頃は、時々プランにお寺が入っていることが不思議だったのですが、仏教の三尊信仰の影響を受けた説もあるらしく、三社詣では必ずしも神社だけにこだわらなくてもいいのだと、祖父から教わったこともありました。
 正装して神仏の前で手をあわせると、気持ちが引き締まり清々しい気持ちになるものです。古い習慣のようですが、かえって新鮮に感じることができるおすすめの過ごし方です。

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