2007年【水無月号】
vol.80

 桜に彩られた濠にボートを浮かべたり、柳の揺れる岸辺を散歩したりマラソンしたり、また夏の夜の花火大会、あるいは博覧会など、福岡市民なら大濠公園にまつわる思い出を、だれもがもっていることでしょう。
 大濠公園の辺りはもともと「草香江」と呼ばれていた博多湾の入り江でしたが、福岡城築城の折り黒田長政は、北の海側を埋め立て「大堀」をつくり、また浚渫と同時に西側唐人町口より追廻門口までの長い土堤を築き、城の外堀としての機能を持たせました。
 明治・大正期、福岡城が廃されてからの数十年、アシの生い茂る沼地と化していた大堀が、日比谷公園などを手がけ、のちに「日本公園の父」と呼ばれた東京帝国大学教授本多静六の目にとまったのは大正十三年のことでした。
 文明開化の時代、日本各地に西欧の理念をとりいれた近代的な公園が誕生し、福岡市にもすでに東公園・西公園が造られていました。福岡県の土木課長渋江武の案内で西公園を訪れた本多は、丘の上から辺りを眺め、この沼地を発見。「あの沼地こそ公園として整備すべきだ」と、弟子の永見健一とともに約一ヶ月福岡に滞在し、公園整備計画に没頭します。永見は中国の西湖をモデルに何度も設計図を書き直し、ついに翌十四年九月、池中に三つの中島を築き、全域に各種の運動娯楽の施設をつくり、水上の一大遊楽場にしようという「大濠公園新設計の大方針」ができあがりました。
 この計画を実現するために知恵を絞ったのが渋江武でした。渋江は、堀の一部(約三分の二)を埋め立て、そこを二年後に予定されていた「東亜勧業大博覧会」の会場用地にあて、さらにその経費捻出のため、跡地の一部を高級住宅地として売却するという計画を打ち上げたのです。現在のアメリカ領事館から気象台までの一帯約十万平方メートルの売却には、申し込みが殺到し、総収入は、公園整備総事業費の三倍に達したといいます。
 学者の慧眼と行政マンの手腕によって生まれた大濠公園は、その後市民に愛され親しまれ続け、大都市の真ん中にありながら、面積三九万八〇〇〇平方メートルという広大な水辺の景色を誇る公園として、その希少性が評価され、このほど国の登録記念物に選定されました。


大濠公園
【碁】
 二年前、太宰府天満宮で第六十期本因坊戦七番勝負の第一局目が行われました。本因坊戦とは、江戸時代から続く家元の名を冠する、囲碁のタイトル戦です。この時の対戦者は双方ともに二十代。若い頭脳が盤上に集中する、そんな凛々しい姿を間近にして、碁が年寄り臭いものという偏見が吹き飛んだことを思い出します。
 最近、少年が主人公の碁漫画が、小中学生の間でブームを起こしているそうです。ひと昔前までは、祖父や父が碁の手ほどきをするのが一般的でしたが、最近の小中学生は自発的に興味を抱いているようです。
 二年前、私も碁が打てるようになりたいと、一念発起してみたのですが、未だにちんぷんかんぷん。毎週NHKの囲碁番組を楽しみにしている主人を横目に、欠伸の日々。
「碁を体得したければ、とにかくやる気を出して、わからないなりに取り組まなくちゃ」と主人が言います。  今年もまた本因坊戦が始まりました。今年こそ碁を体得するぞ、と密かに決意を固めています。

Copyright(C) 2002-2006 Ishimuramanseido Co.,Ltd. All rights reserved

            |前項歳時記TOP次項