四、川上音二郎

鶴乃子が産声をあげたのは、あの川上音二郎の実家でした。

明治38年12月。鶴乃子本舗石村萬盛堂は、川上音二郎が所有していた中対馬小路の実家の一角を借りて誕生しました。日露戦争で日本が勝った直後で、国内には活気に満ちあふれていました。
川上音二郎は、「オッペケペー」で知られる博多生まれの新劇の祖。妻であり日本初の女優でもある貞奴とともに、明治33年から35年にかけて欧米で歌舞伎を披露して称賛を浴びた、世界に誇る役者です。その音二郎が、創業者石村善太郎の人柄をたいへん気に入って、28歳で萬盛堂を創業するときも何かと力を貸してくれました。
石村善太郎は、創業後まもなく萬盛堂独自の博多銘菓の創作に励みました。当時、萬盛堂は古くから博多に伝わる銘菓、鶏卵素麺を製造していました。その製造過程で卵白が大量に残ることから発想したのが、卵の殻に淡雪と餡をつめたお菓子。これが最初の鶴乃子でした。明治40年代には、舶来のマシュマロ技術を鶴乃子の製法にいち早く導入します。それから百年の時を超えて、その独創的な菓子作りの精神は今に受け継がれ、鶴乃子は博多を代表とする銘菓として人々に愛されています。
鶴乃子が生まれたあの長屋は戦災によって失われましたが、その面影は博多区須崎町の石村萬盛堂本店にも今なお見ることができます。