2002年【如月号】
vol.16

 福岡の中心街「天神」の名は、アクロス福岡の向かいに鎮座する水鏡天満宮(水鏡天神)に由来する。
 平安の昔、昌泰四年(九〇一)、右大臣という高い位から太宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷され、博多にお着きになった菅原道真公は、ご自分のやつれた姿を四十川(しじゅっかわ)の水に映してご覧になり、「わが霊魂は、永くこの地にとどまり、無実の罪に苦しむ者を守るであろう」とおっしゃった。その由緒により創建されたのが水鏡天神。この天神様は、はじめ、ゆかりの地庄村(現中央区今泉)にあったが、慶長十七年(一六一二)福岡城築城に際して、黒田長政が福岡城の鬼門(東北方)に当たる現在地に遷し、二代藩主忠之が社殿を再建した。
 発展し続ける博多の街。年々昔の面影は薄れていくが、よく注意して街を歩けば、意外な所で今も町の人々の信仰を集める天神様に出会う。
 博多区綱場の綱敷(つなしき)天満宮は、船のとも綱を巻いて敷物にし、道真公にお休みいただいた場所だと伝える。古くは綱輪天神と言い、綱場町の名はこの天神様に由来する。そしてリバレインの横にも、なぜかモダンな建物と良く調和する「鏡天満宮」の新しい社殿が建っている。ここは、道真公が博多に上陸されて、第一歩を刻された所という。ここでも道真公はやつれた姿を鏡に映してお嘆きになったと言うが、その鏡をご神体に祭ったと伝えている。
 ビルの谷間に、そこだけがタイムスリップしたような空間は、近代都市に変貌しつつも、古い歴史が息づいている博多の街の有り様を象徴している。
 菅原道真公は博多に上陸されてから二年後、延喜三年(九〇三)二月二十五日、太宰府の南館(現 榎社)で五十八年の生涯を終えられた。今年は、それからちょうど千百年。各地の天満宮では特別 の祭りが盛大に行われる。

【梅 花】
 天平二年(七三〇)正月十三日、新暦では二月八日。太宰府では「梅花の宴」が催されていました。当時、太宰府の長官であった大伴旅人が主催した、梅を題詠にした歌会と酒宴です。旅人の館に集まったのは三十二人。北は壱岐・対馬の離島から、南は薩摩・大隅から。盛大な宴の様子は、当時九国三島を統括していた「遠の朝廷」ならではのものだったようです。
 万葉人にとって梅は、春の訪れを知らせる心の景物でした。万葉によまれた梅の歌は、実に百十九首にのぼります。これは当時中国から渡来したばかりの花を珍しがったこともあるでしょうが、なによりも、ウメが日本人好みのする花だったからだと思われます。
 その枝ぶりに見合わず、ほっこり膨らむ蕾。そこはかとなく香るつつましさ。旅人もきっと、そんな梅咲く春を喜んで、この宴の題詠にとりあげたのではと想像するのです。
 ちなみにこの当時の梅は全て白梅。紅梅は平安時代になってからポピュラーになったといわれます。

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