2002年【長月号】
vol.23

 聖福寺(しょうふくじ)に伝わる「仙がい和尚夢中涅槃図(ねはんず)」は、仙がいさん愛用の筆が昼寝をし、仙がいの涅槃の有様を夢に見るという、奇想天外で思わず笑いも出そうな絵。描いたのは、江戸後期の秋月藩御用絵師斎藤秋圃(さいとうしゅうほ)。それに仙がいと愚連堂と二川相近が賛を加えている。四人が遊び心いっぱいにワイワイ言いながら描いた様子が目に浮かぶようだ。
 仙がいさんには、博多に多くの心通わす友人がいたが、ことに東長寺へ三年間毎日通い、秘蔵の空海の真跡を臨模し、あるいは中国の諸大家のあらゆる書法を学んで融合し、「二川様(ふたがわよう)」として一家をなした二川相近とは、書画の合作あり、お互いの愛用の硯に銘名したりと、親密な交際があった。
 相近は黒田藩の御料理人頭格であった相直の子として、桝木屋町(唐人町二丁目)に生まれた。父が亀井南冥(なんめい)と親しかったため南冥の門に入り、政経の学を志したが、十六歳のころより専ら書道に精進した。後に国学を田尻梅翁に学び、和歌、ことに今様(いまよう)を研究し、自らも多くの歌をつくっている。
 福岡を代表する民謡としても誰もが知っている「黒田節」はNHKが改称したもので、本来は「筑前今様」である。相近は越天楽の旋律で歌う「今様」の歌を作り藩士にも指導したという。そのひとつが「酒は飲め飲め」という次第。
 また相近は毎年年頭にあたり、
    君が代は 千代に八千代にさゝれ石の いはほとなりて苔のむすまで
の和歌を揮毫(きごう)し、謡い、神前に供えていた。相近は琵琶の名手でもあり、また仙がいの「白雲哥」を琴曲に作曲し、仙がいが相近の松蔭居を訪ねたときには楽を奏して歓待したという。 相近は晩年の三十年間、病気と称してほとんど外出せず、藩主もそれを容認していたというが、仙がいとの交流はこの間にあったようで、世俗の塵を離れ悠々自適、風雅の極みを楽しむ相近の生き方が、仙がいの心を捉えたのであろう。
 相近は天保七年(一八三六)九月二十七日、七十年の人生を終えた。

聖福寺所蔵「仙がい和尚夢中涅槃図(ねはんず)」
【女郎花】
 秋の七草のなかでも、毎年気になってしまうのが、女郎花。たくさんの植物に名前をつけてきた日本人ですが、「おみなえし」に「女郎花」という表記をあてるセンスには思わずうなってしまいます。
 女郎花は、日当たりのよい山野にはえる多年草です。高さは一メートルで、晩夏から秋にかけて黄色く細かい花をたくさんつけます。そして字の如く、日本人はこの花を、若く美しい「花」に喩えてきました。
 平安時代につくられた恋物語に、『女郎花』というものがあります。足の遠のいた夫の不実を悲しみ、入水した女が野辺に女郎花となって生まれ変わるというものです。「身を投げた女が花となる」という伝説は、東西問わず世界的にも美しいモチーフですが、この野辺に咲く女郎花のイメージこそ、昔の日本人が「美しい!」と思った女性像だったのかも知れません。
 植物への観察眼のするどさは、ピカイチだった日本人。現代の女性はどんな花に喩えられるのでしょうか。

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