2002年【霜月号】
vol.25

 慶応三年(一八六七)四月十四日、高杉晋作は死の床にあった。維新回転の世を夢見、ひたすら走った二十八年の人生であった。苦しい息の下から晋作が
   おもしろきこともなき世をおもしろく
と、詠ったのに続けて
   すみなすものは心なりけり
と下の句を続けた女性がいる。野村望東尼、維新の志士たちの母といわれた人である。
 望東尼は名を「もと」といい、文化三年(一八〇六)、福岡藩士浦野勝幸の娘として、福岡城近く、谷のお厩後(うまやのうしろ〈中央区赤坂〉)で誕生した。二十四歳の時、福岡藩士で四一三石の野村貞貫(のむらさだつら)の後妻となり、二十七歳の時、夫とともに幕末の代表的歌人大隈言道(おおくまことみち)に入門した。
 貞貫五十二歳、もと四〇歳の時、二人は俗世間を逃れ、平尾の山荘に隠居した。今では、マンションや商店の谷間に、ここだけ別 世界のようなひなびた山荘が、「史跡」として整備されているが、当時は鹿の鳴き声が聞こえるほどの山間だった。自然がいっぱいのこの山荘は、言道や門下の人々がしばしば訪れ、歌を詠みあうという風雅のサロンであった。
 夫の死後京に上がり、幕末動乱を体感してからの望東尼の人生は一変し、平尾山荘は勤王の志士達のアジトとなった。山荘を訪れる多くの志士たちのなかに高杉晋作もいた。晋作は山荘に二週間あまりかくまわれ、挙兵のため山荘を辞するときには、望東尼は変装のための町着を縫って与えたという。こうした望東尼の恩に報いるため、晋作は糸島半島沖の姫島の獄舎から望東尼を救出したのである。
 下関で晋作を看取った望東尼は、山口から三田尻(防府市)に移り、薩長連合を見送り、防府天満宮に七日間の戦勝祈願の歩行詣りをした。そして晋作が無くなったのと同じ年の十一月六日、故郷遠く離れた三田尻で、その凛とした生涯を閉じたのだった。


野村望東尼(のむらもとに)山荘跡(山荘公園内)

【お茶の贈り物

 茶道の世界で十一月というのは、ちょうど正月に当たる時。なんでもちょっと早く季節の趣を取り入れる茶道の心意気をくんで、お茶の贈り物について書こうと思います。
 栄西禅師がここ博多にお茶を伝え、およそ八百年が経ちました。その栄西禅師にちなんでなのでしょうか、九州では、大切なときの心の贈り物として、よく「お茶」が活躍します。特に結納の儀にみられる「お茶を贈る風習」はちょっと面 白いのです。お茶の故郷中国にもその昔あった、嫁入り道具としての「お茶」の特徴をみてみましょう。
 一、葉が落ちない
 二、摘まれても摘まれても新芽を吹く生命力
 三、一度だけ移植をすると、より良質の茶を産する
 四、土壌に深くまっすぐ根を張る
 五、なにより不老長寿の飲み物である
いやはや、お茶に込められたお嫁さんへの期待というのは絶大なものだったのですね。
いえ、今でも風習が伝えられているのだから「だった」のではなく、現在進行形なのですよね。

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