2005年【弥生号】
vol.53

 先月号でお話しした石堂丸は、成長して加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんのじょうしげうじ)
と名乗り、父の跡を継いで苅萱の関の関守となりました。
 ある日のこと、花見にでかけた繁氏は、にぎやかな酒宴の最中に花びらが盃に散り浮くのをみて、何となく心がざわめき家に帰りました。部屋の中をのぞくと、奥方と妾が仲良く談笑し、穏やかな風情です。ところが二人の長い黒髪の先端は蛇になってはげしく闘っているのです。これをみた繁氏は世の中を憂きものに思い、そのまま家を出て高野山に登り出家してしまいました。
 繁氏が家を出てまもなく男の子が生まれ、父の幼名をとって石堂丸(石童丸)と名づけられました。やがては母この子を連れて、はるばる高野山に夫を訪ねましたが、当時高野山は女人禁制。やむなく母は麓の宿に留まり、幼い石堂丸がだけが父を訪ねて高野山に登りました。たずね歩くうちに一人の出家に合い、事の次第を話し父の行方をたずねますと、僧は、「その方ならもう亡くなられた」と答え、下山を勧めます。
 父の顔を全く知らない石堂丸が、がっかりして母の待つ麓の宿に帰りますと、母は長旅の疲れと夫に逢えない悲しみのため、病を得て死んでしまいました。石堂丸は再び高野山に登り先日出逢った僧の弟子になりました。この僧「苅萱道心」こそたずねる父繁氏。しかし石堂丸はそれに気づかず、苅萱道心もそうとは名乗らず、ともに仏道修行に励んだのです。
 高野山に世を逃れた苅萱を筑紫からはるばる子供が訪ねるという話は、能や説教節・浄瑠璃・琵琶などにも取り入れられています。語り物故、話の細部は少しずつ違います。たとえば能「苅萱」では子供の名前が「松若」。石堂丸の名は、博多町割りの七堂が誕生してから後のものと考えられ、一七三五年に作られた浄瑠璃「かるかやどうしんつくしのいえづと」では「石童丸」となっています。



苅萱の関跡(太宰府市 坂本一丁目)
【春の霞】
 3月に入ると、桃の節句、啓蟄(けいちつ)、お彼岸と、日をおって次第に春めいてきます。山間(やまあい)や海上にはどこからともなく帯状の薄雲がたなびき、路上では土や植物の活き活きとした匂いが、鼻をくすぐるようになります。古くより詩歌の上では、このたなびく雲を、春は「霞」、秋は「切り」と区別 し、霞は春を表す言葉として詩に詠まれてきました。

みわ山をしかもかくすか春霞
  人にしられぬ花やさくらむ    素 性(古今和歌集)
(春の霞は三輪山をこうまでかくすことか。
    きっと人にしられぬ花がさいていることであろう。)

見えそうで見えない山間に、暖かな陽を浴びて潤う花々を想像する情景が目にうかびます。霞は植物の力強い生命力も人間のたくましい想像力も包み込み、やんわりとした穏やかさをいっそう深く感じさせてくれるのです。
 月末には、ぼつぼつ桜の便りも聞かれるようになります。雛祭りのお祝い、桜の花見など春の行事も大いに楽しみたいものです。

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