2006年【如 月 号】
vol.64


戦国の世、柳町の遊郭に明月という信心深く、美しい遊女がいました。
  彼女は備中国窪屋郡西河内村の窪屋与次郎一秋の娘で、本名をお秋といいました。お秋は隣村に住む、伏岡金吾と許婚の仲でしたが、お秋に横恋募した藩の指南役矢倉監物が金吾を亡き者にしようとして誤って父親を殺し、金吾は親の仇を討とうと筑紫へ下りました。金吾を追うお秋が、やっとの思いで姪浜の宿に着いた、まさにその夜、長垂海岸で仇に遭遇した金吾は、見事仇討ちを果たしますが、自分も深傷を負って死んでしまいました。翌朝、「仇討ちがあった」と叫びながら、西の方へ走っていく大勢の人に交じって「もしや」と思う一念で駆けつけたお秋が目にしたものは、無惨な金吾の骸でした。石山本願寺の合戦で父を、その留守中に母を、そして頼りの綱の金吾までも失ったお秋は、生きる希望を失い長垂の海に身を投げます。助けてあげられたお秋は、その美貌故、柳町の遊郭に売りとばされ、「明月」という源氏名をつけられたのです。
  ある日、亡き父母と許婚の追善供養のため萬行寺(博多区祇園町)を訪ねた明月は、かつて石山合戦で知遇を得ていた七里正海師が、今は萬行寺住職であることを知り「御仏のお引き合わせ」と涙しました。闇夜に光明を得た想いの明月の心は和み、毎日の萬行寺への参詣を欠かさず、もし都合で行けないときは、庭石を寺までの歩数踏んで遥かに礼拝し、賽銭を石堂川に投げました。すると濡れた銭が萬行寺の仏前に届いたと伝えられています。
  天正六年(1578)二月七日、明月は病を得てこの世を去りました。わずか二十二年のはかない花の生涯でした。正海和上は明月の部屋の障子に映る普賢菩薩のお姿を見、まさに今、普賢菩薩に迎えられんとする明月の最期を悟られたのでした。 四十九日目の朝、明月の墓の上を破って一茎の蓮が生じ、匂うような白い花が咲きました。墓を掘りあらためたところ、明月の亡骸は今なお生きているようで、微かに微笑むその口から茎が伸びでていました。その先に咲く白蓮華。人々は驚嘆し、あたりは思わず口をついてでた念仏の大合唱となりました。
  四百年以上も経った今日もなお、明月の口蓮華は淡い緑の色をたたえ、明月の永代供養にと寺に納められた帯で作られた七條袈裟とともに、薄幸のなかに本当の信心を貫いた美しい人を偲ぶよすがとなっています。
   


                  明月信尼画像(天正6年2月7日遷化行年22才)/萬行寺所蔵

【豆くう節分】

 スーパーの歳時コーナーで節分豆が売り出されると、毎年どきどきしてしまうようになったという友人がいます。なんでも、そのお宅では、毎年豆まきが終わると年の数だけ必死に豆食い合戦をするからだというのです。 子どもの頃にはほんのちょっとしか食べられなかった豆が、年を重ねてある程度の年齢になると、食べ続けるものも至難の業になります。数え年で四十六歳になる友人は、四十歳を超えたあたりから急に節分の催しが重たく感じるようになったと話していました。 しかし、七十五歳を超えるその父親は、毎年、目を白黒させながらも一生懸命に豆を口にほおばり、最期は決まって「今年もこれで大丈夫」と言わんばかりの満面の笑みを浮かべるのだそうです。 一念の無病息災を願うという節分行事は、もしかしたらこんなお父様の笑みで邪気払いがなされているのかもしれません。今年の節分は、その笑みを想像しながら、一つずつ豆を口にほおばりたいと思います。

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